Crap for Carers

今日も外出自粛の中、近所を家族みんなで自転車で出かけたり、

庭も少しできたり、なかなかにいい1日だった。

 

まあ、最近のいい日のご多分に漏れず、

1日の最後に盛り上がりすぎた長女が羽目を外し過ぎて、

それが目に余って、叱ってしまい、嫌な気持ちになる、という

ルーティンは相変わらずだが、

それにも多少慣れてきた今日この頃では、今日はいい1日だった、と言えるだろう。

 

昨日の繰り返しになってしまう気もするが、

本当に、1日の最後にその日がよかったと思えるのは、ひとつの確かな幸せである。

 

さて、今日のタイトルである。

今話題の「Clap for Carers」。

新型コロナウイルス感染症対策の最前線にいる、医療従事者へ拍手をし、

感謝を伝える、というものであるが、

念のため言っておくと、タイトルのそれは、スペルミスではない。

 

「最前線で戦うものにとっては、なんてたわごと」

これが今日のタイトルである。

 

一昨日の金曜日のこと、

職場の職員向けオンライン掲示板で、市でもClap for Carersをやることを知った。

昼休みに市長が館内放送をし、職員みんなで拍手するのだという。

朝にそれを一瞥したものの、例の「食の支援」で忙しくしており、

まったく気にも留めなかった。

 

さて、昼になり、「昼休みに行こう!」と思った瞬間、

その館内放送が始まった。

結論から言えば、さすが市長というスピーチで、

何も知らずに市役所に来た市民の多くには感動的にすら聞こえたのではなかろうか。

 

でも、、いやいや、なんの茶番だよ。

拍手30秒が長い、とかもそうだけど、もっと大事なこともあるでしょうが。

 

スピーチの中で、

「職員のみなさんもまぎれもなく、ケアラーです」ってセリフがあったけど、

じゃあ、なんでそのケアラーの手を止めて拍手なんかさせたのさ?

 

その様子がYoutubeに上がってるとか聞いてたから、

今それを見てたら、まさかの0時回りで、

ブログ連続日数が途絶えてしまったではないか。

、、それはさておき。

 

自分の次期選挙のために職員を使うなよ。

 

拍手したければ、ひとりでしてたらいいじゃん。

ケアラーズのための拍手にケアラーズを使うなよ。

 

まあね、多くの人は30秒くらいなんだよ、って思うんだろうし、

それもそうだね、って思う。

だけど、このYoutubeの動画のために、撮影する職員がいて、

それを広報担当課に持っていって、その担当が編集して、

それをみんなが見ているわけですよ。

その誰もがケアラーズなのに、ですよ。

 

もちろん、Clap for Carersは素敵な取り組みだと思う。

でも、このやり方は違うと思う。

 

公務員は国民のため市民のため働いている。

総理大臣や市長のためじゃない。

 

職員の使い方が間違ってますよ、市長。

一緒に市民にとって何がベストか考えましょう。

 

税金で生活を営ませてもらっているとはそういうことでしょう。

それをどれだけ市民に返せるか、でしょう。

 

高橋優さんの「福笑い」ではないけれど、

僕はそれを「愚直に信じて」生きていますよ、仕事していますよ。

 

いよいよ明日から「食の支援」が始まる。

でも、果たしてそれでいいんだろうか、、

小休止して自己紹介、のようなもの

今日は、外出自粛もあり、今唯一の趣味と言っていい、好きな庭仕事ができた。

いい1日だった。

 

そこでブログを開いてみたら、相変わらずアクセルがない。

もしかしたら僕はずっとオフラインで書いているのかと錯覚してしまうほどだ。

でも、反対に僕が覗くブログさんたちは更新されているので、

オンラインなのは間違いないようだ。

、、おかしいな。

 

その原因を自分なりに分析してみると、

(「面白くない」という点は、はじめからスルーすることにして)

おそらく、最初から「神様ネタ」が多かったからではないだろうか。

(「エンタの神様」のネタ、ではない。、、って、ほら、面白くないでしょ。)

 

たぶん、宗教色が強いとかで、ハテナに嫌われたのではなかろうか。

まあ、市役所も似たようなもので、理解はできる。

 

ただ、一応弁明というか釈明というかしておくと(誰も読んでないけど)、

確かに僕は1クリスチャンであり、真摯に神様のことを信じているが、

いわゆる「異端」とされるアブナイ宗派ではないし、

特に宗教職に就いているわけでもないし、もちろん宣教・勧誘をするつもりもない。

さらに言ってしまえば、これを書いてる間もお酒を飲みながら、という、

アル中予備軍でもあり、敬虔なクリスチャンにはほど遠い。

 

クリスチャンであることは、僕の確かな一面だがすべてではない。

主に仕事のストレスと悪循環?悪習慣?でアル中なのも、同様に、

僕の一部であり全部ではない。

 

このブログはあくまでも、自分の気持ちを外に出すためのものであり、

「読者がいない」と嘆いてはいるものの、ただの日記のようなものである。

本当の意味で誰かに読んでもらいたいものなら、もっとその書き方をする。

だが、今はいろいろそこまで考える余裕もなく、このままお酒だけ飲んでると、

体調・精神ともに悪化の一途なので、それを食い止めるためにこれを書いている。

以上だ。(「異常だ?」大きなお世話だ。)

 

僕は、クリスチャンであり、アル中であり、

アラサーとアラフォーの中間であり、

愛する可愛い妻の2番目の(そして願わくば最後の)夫であり、

同じく可愛い2人の娘たちの2番目の(同じく願わくば最後の)父であり、

これまた可愛い息子の(願わくば最初で最後の)父であり、

今は絶縁状態の実家に置いてきた娘の「元」父であり、

2回の結婚と、1回の離婚と、1回のシングルファザーを経験し、

元々は外交官を志し、挫折し県職員となり、

家庭のために市役所に転職した公務員であり、

両親やその親まで教師という家に育って、そこを離れていたり、

バスケ部生活が長かったり、

文化祭で自分の下手さ加減に気づかずギターで舞台に上がったことがあったり、

9.11のあとの同じく文化祭で全校生徒に千羽鶴を作るよう呼び掛けてNYに送り、

ブルームバーグ市長から手紙をもらったことがあったり、

国際法を専攻し法学部を卒業したのに、福祉の仕事に長く関わっていたり、

映画が好きだったり、「壬生義士伝」は最初のページで泣いてみたり、

庭仕事や畑仕事が好きだったり、

日々、人に優しくしたいと願い、できなかった部分を悔やみ、

生きる積極的な意味は見いだせないながら、

人の役に立つことで生きることを許されたいと願っていたりする、

人を愛したいと、それだけを願っている、

そんな人間である。

 

そんな僕が綴る気持ちが、このブログである。

まさに「王様の耳は」で恐縮だが、

もしこの「井戸」を覗く奇特な方がいらっしゃれば、

以上のことをあらかじめご了承いただければ幸いである。

ザルとテンプラ

タイトルは、まさかのそばシリーズ続き。

 

さて、昨日の続きである。

「休校期間中の食の支援」について、である。

 

それのどこがおかしいのか。

ね、ホント。どこがおかしいのか。

さらっと聞くと、いいことのようにしか聞こえないし、

中には「そんな問題(給食がないとご飯食べない子がいる)があるのかー」

というとこから気づきだったりして、これはもう高評価しかない。

自分の住んでいる自治体のトップがそんなことまで考えているのかー、って、

ついつい一票入れてしまうだろう。

ほら、もうこれで2期目確定だ。

 

でも、実はそれが今世の中に広がる格差の正体である。

 

上の話に「いいね」してしまうあなたは、

「そんな問題」とは無縁である故に、社会的には勝ち組である。

そして、そんな「勝ち組に聞こえのいい福祉」をするのが今の政治である。

「必要な人にいい福祉」をしても票につながらない、これが本音である。

というか、市長の名誉のために正確を期すなら、「必要な人にいい福祉」がなんであるかわからないのだ。だって、必要になったことがないから。

だから、「よさそうに見える福祉」しかできない。

貧困の人が成り上がれないのと一緒だ。

そこには見えない壁がはっきりとあるのだ。格差が。

 

必要になったことがない人が考える福祉は、どこまで行っても「施し」でしかない。

でも、「施し」てしまったら最後、

そこには「支援する人」と「支援される人」の断絶が起きてしまい、

もうこの溝は埋まりようがない。

 

安倍さんがいい例だろう。

彼に言いたいことは山ほどあるが(エベレスト何十個分でもあるが)、

育ちが良すぎる彼に、人の痛みをわかれ、というのが酷である。

その一見人畜無害なところだけでこれだけ長きに渡って、国家責任者を務めてしまい、

それに諂う取り巻きは一向に減らずむしろ強まり、今の格差がある。

 

話を戻せば、僕は「施し」などしたくないのだ。

 

だって、公務員はどこまでいっても公務員であり、

公の僕(しもべ)であるはずだから。

どこまでいっても市民と共にあるべきだから。

 

ここでのパラドックスを挙げるなら、

言ったら、公務員だって「勝ち組」ではないのだ。

今退職していく人たちならいざ知らず、

これからは定年は伸びるわ、退職金は減るわ、年金も減るわ、で

大した未来は描けない。

なのに、いつまで経っても「勝ち組だった」意識から抜け出せないのだ。

なんと悲しいことだろう。

まあ、それも仕方ない。

地方公務員なんて、それぞれの村で一番頭がよかったみたいな人がなるもので、

そして、「公務員安泰神話」の信奉者たちばかりだから。

でも、市役所内で結婚してるような人たちならともかく、配偶者を専業主婦(主夫)にしているようなら、貧困ともさほど遠くなく、「神話」は崩壊していると言わざるを得ないのが現状だ。

それでも、「神話」であるがゆえに、事実はさほど重要ではなく、もう「信仰」の世界に入ってしまっていて、それを覆すのは難しい。

よって、その「神話」への信仰が強い人ほど、「施し」たくなってしまうのだ。

意識的にか、無意識にか、社会的弱者とは距離を置きたくなってしまうから。

 

難しい言い方をしてしまったが、

誤解を恐れず言ってしまえば、「差別」がしたいのだ。

したいのなら、それがなくなるはずがない。

それが「施し」となって表れる。

 

でも、それじゃダメなのだ、本当は。

 

また脱線してしまった。

続きはまた明日にしよう。

 

ちなみに、子どもの貧困対策法は、いわゆるフレーム法で、

具体的な中身は、それぞれの自治体に任されており、

それで今回の食の支援のような策が出てくるわけだが、

結局その中身は「ザル」である。

 

また、聞こえはいいが、中身はひどいので、

「偽造」を指す隠語「テンプラ」も当てはまる。

 

、、おあとがよろしいようで?

モリとカケ

この言葉が「そば」の話ではなくなったのは、いつからだったか。

 

赤木さんのことが出た週刊誌は、若者中心に売れたそうだ。

若者の公務員離れが起きているそうだ。

 

県で8年、市で2年、公務員をしてきた僕としては、どちらも理解できる。

結構仕事も選べる時代になってきた。

しかし、公務員はオススメしない。

できればしたいけど、今はできない。

 

昨日からの怒りは、そこである。

今日になったら少しは落ち着くかと思ったが、今日も散々で、悪化している。

それでも、話せる範囲で話してみようと思う。

、、どうせ誰も見てないし。

 

事の発端は、すべてこの新型コロナウイルスのせいである。

そして、それに伴う、今の休校措置である。

 

僕の部署は、子どもの貧困対策をしている、割と新設の、若手市長の肝入りである。

元々は、生活困窮者自立支援法の学習支援事業に始まり、

そこから、いつの間にか、子どもの貧困対策法をも含め、広く子どもの貧困対策をすることになった。

(それにしても、法律って、その名前を書くだけで、堅苦しい文章になってしまうんだろうか。)

 

勤務先の市は、SDGs未来都市でもあり、

まあ、基本的になんでも時代の先端を行く「感じ」はある。

「学園」とか「研究」とかも売りにしてるしね。

 

とはいえ、実態は、もっと進んでいる他市町村の寄せ集め施策ばかりで、

オリジナルなものは実は少ない。

それでも、若手政治家の市長と、それよりもっと若い副市長の2人の「外交」が上手なせいか、なんとかそれなりにやっている、、ように見えている。

 

別にもっと堅実にやっている他市町村もあるわけで、

そういうのを少しは見習って、中身のあることをすればいいのに、

「スピード感」とやらを尊重して、残念ながら中身はすっからかんなことが多い。

残念ながらというか、本当に残念だ。

 

しかし、まだ幸いなことに、広く外にはその「すっからかん」振りはバレてないようで、たぶん2期目も堅いのだろう。これも市民にしては残念だ。

 

ただ、もしかすると、市長たちばかりを責められないのかもしれない。

というのも、現場の細かいことを知らなければ、今自分たちが言っていることが実情に合っているかどうかもわからず、それに反対や忠言できない部下の問題かもしれない。

今や先進都市のような顔をしているが、中身は合併前の町役場のままなのだ。

 

そう考えれば、市長たちは「裸の王様」ということになる。

誰も面と向かって意見してくれないのだ。

それはそれでかわいそうな気もするが、よりかわいそうなのは市民の方である。

 

 さて、総論はそこまでにして、昨日今日の話だが、

そんな裸の王様が考えたのが、「休校措置期間中の食の支援」である。

「考えた」というのは例によって正確ではなく、

より正しい(皮肉な)言い方をすれば、

「そういう事例を見つけた」ということである。

 

確かに、給食のない夏休みなどで痩せてしまう子がいるのは事実である。

市内にいるかは別として、日本ではいる。

緊急事態宣言を受けての休校期間中にもいるだろう、というのが、今回のスタートである。

 

さて、どうせ読む人はいないと割り切って、今日はここまでとしよう。

明日更新するつもりだ。

ブログを書く、ということ。

これは、申し訳ない、

ただの、ストレス発散である。

 

ロバ耳王様の井戸のようなものである。

誰にも普段言えないようなことを言う場所。

幸いにもまだ読者はいない。

 

今日は仕事上の怒りが強すぎて、文章にならなさそうだったので、

脈絡もなしにこんなことを書いてみた。

というのも、目下の目標は、毎日書くこと、だからである。

継続は力なり、とはよく言ったもので、

継続するにはなんとも力が必要である。

 

今日の怒りは、明日くらいにもし文章にできそうなら書いてみよう。

ちなみに、前述の、怒りの根本感情で言えば、今日のは怒りである。

んー、、一応もっと潜ってみて、インセプションのディカプリオ様くらい潜ってみて、

やっと悲しみと悔しさに出会えた。

 

ちなみに、今日仕事以外で怒ったことは、

安倍首相の

「例えば最悪の事態になった場合、私が責任を取ればいいというわけではありません」

という発言くらいだろうか。

、、こいつダセーな、ホント。

 

まあ、ブログなんて、みんなにとっても井戸みたいなものではないか、所詮。

 

あと、ちなみに、今日の嬉しかったことは、

妻がお弁当を職場まで届けてくれたこと。

感謝、である、ホント。ありがとう。

娘の入学式

今日は、次女の入学式に行ってきた。

 

新型ウイルスの影響もあって、長女の始業式も兼ねていて、

合わせて1時間というコンパクトなものだった。

 

2人の娘の学校は、僕ら家族の行く教会にあるフリースクールである。

より正確に言うなら、オルタナティブスクール。

不登校などで公立校に行けないから来るというよりは、

わざわざここを選んで入れているようなところである。

カリキュラムや時間割もきちんとしているし、

先生たちも少ないながらも、ちゃんと学校って感じがしている。

 

初等部・中等部合わせてわずか30名弱。

毎月保護者会が行われたり、礼拝のおかげで先生たちともほぼ毎週顔を合わせるので、

ある意味、普通の公立校よりは、

より教育の根本に立ち返っての運営ができていると思う。

 

長くなってしまうが、そもそもの教会との関わりは、

再婚で引っ越してきた妻たちが、市内では次女の保育園を見つけることができず、

妻が隣接する市の認可外幼稚園を見つけてきて、それが教会にある幼稚園だった、

というのがスタートである。

この時、次女は年少の11月。

 

入園の条件が毎週日曜日の教会学校に来ることで、

僕らはそれを守り、親も大人の礼拝に出て、

1年半くらいが経って、僕が洗礼を受けた、という流れである。

 

当初からフリースクールがあることは聞いていたが、

まさかそこに子どもたちを入れるとは思っていなかった。

 

しかし、地元の公立小学校は県内一のマンモス校であったことから、

発達障害のある長女は、引っ越し当初から私立の学校に入っていたが、

4年生になってから同級生からイジメを受け、

学校からも真摯な対応が受けられなかったため、

その私立を退学し、次の学校を探すことになり、

地元公立校へは行けなかったため、フリースクールへ入る運びとなった。

これが昨年の11月のことである。

 

そして、なんだかんだ言いながらも姉が大好きな次女は、

幼稚園の同級生の半分がそのままフリースクールに上がることもあって、

ほぼ迷いなしで、フリースクールに入ることを決めた。

 

そして今日に至る。

そんな経緯である。

 

娘とはいえ、僕はステップファザーなので、

まだ彼女の人生の半分強しか一緒にいないが、

それでも小学校と入学式とくれば、確かに感慨深いものがあった。

 

子どもの成長ってあっという間だね。

 

同級生は娘を入れてわずか5人の小さな小さな学校だけど、

その分、結束は強いし、

先生たちはよく見てくれる。

妻も安心して預けられるという。

 

次女は普通の学校を知らないまま中学卒業まで行ってしまうかもしれない。

給食も週1しかない。

友達ともこのままずっといけるのだろうか。

不安はある。

 

でも、今日の入学式を見て、預けてみようと思った。

教会的な言葉で言えば、期待してみようと思った。

やはり、何はともあれ、同じものを信じている、というのは大きいのだ。

 

学校の本分に立ち返り、

人間としての成長を期待するとき、

僕はこの教会のフリースクールは、十二分にアリだと思った。

 

うん、そう思ったよ。

 

次女よ、どうか素敵な9年間を送ってほしい。

 

愛の彼岸にあるもの

愛とは何か。

僕の人生における至上命題のひとつである。

 

愛とは何か。

 

洗礼を受けたことで、とりあえずの盲目的な答えを「神様」としている僕だが、

本当の試練はまだまだこれからで、その答えの意味を実感するのはまだ先だろう。

 

そんな時は、とりあえず、その反対のものから考えてみるのも一つの方法だ。

 

愛の反対とよく言われるもの、①憎しみ、②無関心。

②は言わずもがな、かのマザーテレサの言葉からだと思っていたが、

どうやら違ったらしい。

 

まあ、似たようなことを考える人は意外と多かったようだが、

ある情報によると、A・S・ニールという人がそのものズバリなことを言ったらしい。

「愛と憎しみは、とどのつまり、同じことを言っているのであり、

 愛と憎しみは対義語ではなく、愛の反対は、無関心である。」(意訳)

 

うーん、言いたいことをすべて言われてしまった感がある、、

 

無関心とは、わかろうとしないことである。

 

ついでに、こんな言葉も見つけた。

「もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、

 それは愛ではなく、共生的愛着、

 あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。」
(エーリッヒ・フロム)

 

そして、この愛の究極的な広がりの行きつく先が、神様、なのだろう。

 

愛の、ひとつ確かな側面は、優しさ、だと思う。

相手をわかりたいと思う。相手に関心を抱く。

 

僕たちの愛は、きっとまだ、信じていいはずだ。