委ねる
礼拝がオンラインになって久しい。
もちろん新型コロナウイルス対策のためだ。
昨夜は、ブログはサボって、前述の牧師先生のメッセージを聞きながら寝た。
イースター礼拝かつ教会創立記念礼拝かつオンライン礼拝のメッセージである。
内容もそうだが、それより何より、その人のキリストの香りに安心する。
今夜は、先週の礼拝メッセージを聞いた。こちらは今の主任牧師先生のものである。
テーマは、「近視眼的なものと啓示的展望」について。
細かい話は、端折るとして、すごく簡単に要約すれば、
「私たちは目の前の状況に右往左往、一喜一憂してしまうが、
すべて神様に約束されていることと信じ、神様を信じ感謝し賛美しよう」
という話である。
うん、すごくクリスチャン的だ。
以前の僕なら、ちょっと遠慮してしまったことだろう。
だが、一応断っておくなら、以前でも「神様」の話であれば抵抗はなかった。
そこに「イエス様」が出てくると、急に「生理的にムリ」となっていた。
今も抵抗ゼロではないが、今年のイースターにかけて、
イエス様について聖書を読んでいたら、少しずつ受け入れられるようになってきた、
気がする。うん。
今日の話を僕なりに理解すると、「委ねる」ということになった。
そして思い出したのは、メッセージにあったダニエル書や民数記ではなく、
伝道者の書であった。
前にも紹介した、あの部分。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
しかし、人は、神が行われるみわざを、
初めから終わりまで見きわめることができない。」(3:11)
そして、
「今あることは、すでにあったこと。
これからあることも、すでにあったこと。
神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。」(3:15)
ちなみに、伝道者の書で驚いたのは、次の箇所、
「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。
これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。
人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
「みな同じ所へ行く。すべてのものはちりから出て、
すべてのものはちりに帰る。」(3:19-20)
すごく仏教っぽい気がする。
人は特別で、動物とは区別されるものだと思っていた。
創世記にあるように、
「そして神は、
『われわれに似るように、われわれのかたひに、人を造ろう。
そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」(1:26)
このイメージである。
しかし、以下は勝手な解釈だが、
人と動物の違いは「永遠への思い」ではないだろうか。
簡単に言えば、時間の観念、もしくは過去・現在・未来という時の流れ。
人も動物も命があり、生まれ、いつか死ぬ、という、この部分は変わらないが、
この今の体が「いつか死ぬ」と知っている、という点だけ違う。
猫は死ぬ時、家からいなくなり、どこかへ行ってしまう、というが、
あれは、死の痛みから逃れようとする、その結果に過ぎない、
という話をどこかで聞いたことがある。
人はそうではない。
この「永遠への思い」が最初から備わっていたものなのか、
それとも「知恵の木の実」を食べたから、なのかは、まだよく知らない。
創世記を読むと、その木の実を食べたのち、
「いのちの木の実」をも食べさせられ、「死ぬ」運命になった、となっている。
これらを総合して、整合性を図るなら、
人も動物も有限の命として創造され、ちりへと帰るものであったが、
人にだけ、その有限性を知らされている、ということになるだろうか。
「死ぬ運命になった」ではなく、「死ぬ運命であることを知った」が正しいか。
でも、確かに、流れる時間軸を思い描き、
将来のある一点の死というものを意識できなければ、
死すらも意識できないだろう。「死ぬ運命」にあるとはわからないだろう。
しかし、その時間の観念を持ってして描く「永遠」でも、
神様の「永遠」には遥か及ばず、その意志を窺い知ることはできない。
そういうことではないだろうか。
そして、話は最初に戻る。
そうであるならば、僕たちは神様を信じ委ねるしかない。
クリスチャンの多くは、僕からすると、神様の恵みに注目している気がする。
「死からの復活」とか「天国」とか。
でも、僕はどちらかというと、そのスタートが「委ねる」方で、
恵みに関しては正直よくわからない。
けれど、委ね信じるということは、
恵みに関する部分をも信じ委ねるということであるから、
そうすると確かに感謝だよなぁ、と思う。
相変わらずまとまらない気がするが、
それもそのはず、神様のことはわかりえないのだ。
信じ委ね感謝し賛美するしかない。
、、おあとがよろしいようで?