タイトル

ご無沙汰しております。

 

なんと2日も休んでしまった。

一昨日は、妻や子どもたちと寝室に上がったら、そのまま寝てしまった。

昨日も、金曜で一週間の仕事終わりで、一昨日と同様で、

気が付いたのは、なんと23時59分。時すでに遅し、である。

そこからご飯を炊いたり、シャワーはしたものの、ブログの余力は残ってなかった。

 

とはいえ、まあ、おかげさまで、身体の方は休めたし、

今日なんとか書いているので、3日連続休み、三日坊主になるのは防げた。

(クリスチャンで「坊主」とか笑えない。)

 

ブログを書かないと、平日はメンタルが病んでしまうが、

ブログを書くと、フィジカルにはやられてしまう。

難しいところだが、

まあ、平日はメンタル重視、週末はフィジカル重視、でいいかもしれない。

こちらもおかげさまで、最近週末は以前ほどメンタルをやられなくなった。

 

さて、例の「休校期間中の食の支援」についての続報もあるのだが、

今日は、ブログのタイトルについて説明しておきたいと思う。

 

「Chill e Acta

如何にも意味ありげに書いているが、読みは「ちりあくた」、「塵芥」である。

これは、副題に「Phillipians3:8」とあるように、

新約聖書の「ピリピ人への手紙」3章8節から来ている。

いわく、

「それどころか、

 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、

 いっさいのことを損と思っています。

 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、

 それらを『ちりあくた』と思っています。」

 

この前の節で、手紙の差出人であるパウロ先生は、

自らのことを振り返り、

「私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。

 もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、

 私は、それ以上です。」(4節)

と語り、続く節で、いかに自分が「人間的に」優れているかを語る。が、

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、

 私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(7節)

と続き、「ちりあくた」へと至るのだ。

 

さらに、その後は、

「私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、

 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、

 すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、

 という望みがあるからです。」(8-9節)と続く。

 

僕は、今のところ、聖書のこの部分がたまらなく好きなのだ。

 

すごく嫌なヤツに聞こえるのを承知で言ってしまうと、

小中の頃の僕は、勉強という点で敵なし、だった。

で、当然のように県で一番の進学校の高校に進んだ。

勉強に限らず、親や祖父母が教師一家だったこともあり、一定の界隈では間違いなく「いい子」だったわけだ。

それを周囲は期待したし、僕も当時はそれに特に不満もなかった。

それが当たり前だった。

勉強もできて当たり前だし、「いい子」で当たり前。

パウロ先生の言葉を借りるなら、

当時の僕には「人間的に頼むところ」がたくさんあった。

 

まあ、、周りからすれば、少なからず「嫌なヤツ」だっただろう。

、、パウロ先生もたぶんそうだっただろうけど。

 

高校に入って最初の学力テストで、「勉強」の点で最初の「洗礼」を受けた。

家庭科だったか、何かのテストで裏面があるのに気づかず提出したら、

ちょうどその分20点がない、80点の答案が返ってきたのだが、

順位が限りなく学年でビリだったのだ。

そう、誰もそんなテストで間違えないのだ。

100点が当たり前で、そうじゃないのはケアレスミスをする人しかいない。

そんな環境に身を置き、初めて勉強に対する「プライド」を捨てることができた

(半ば強制的にだけれど)。

当時、親には怒られたような気もするが、僕自身はどこか気が楽になったことを覚えている。

 

その後の3年間は、文化祭に一番力を入れていたり、

前にも書いたように、ギターを弾いたり、千羽鶴を作ったりしていた。

 

まあ、とはいえ、トウダイを目指して当然の高校だったので、

さほど勉強しなかった僕も、エンジ色がトレードマークの大学に進み、

結局、勉強においては、それなりの人生を歩んできた。歩んできてしまった。

 

夢だった外交官にはなれなかったが、県の職員にはなれて、

そういった意味でも、別に苦労はしなかった。

 

でも今は、洗礼を受けた今は、

それらのことは「ちりあくた」と思っている。

so what?」って感じ。

 

もっと大切なことがあるんだろう、と思う。

 

「いい子」でいることの意味がわからなくなり、

その代わりに、特に代わり映えはしないけど、

家族みんなで過ごせる毎日にすごく感謝できるようになった。

 

そして、自分なりの独り善がりでもがく毎日ではなく、

少しずつではあるが、「委ねる毎日」を送れるようになったことに感謝と、

「希望」を抱くようになった。

 

希望は大事である。

大好きなスターウォーズも42年に渡っての主題は希望であるし、

「ショーシャンク」だって希望がテーマである。

そう考えると、僕は「希望」が好きなんだろう。憧れているんだろう。

 

「いい子」でいる日々に希望はない。

「いい子」でなくなってしまった時の恐怖を背に、

必死に「いい子」でいるしかない。

そこには希望はない。

 

希望、すなわち「信仰」は大きな力を生む。

 

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追及しているのです。(中略)私は、すでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、(中略)目標に目ざして一心に走っているのです。」(12-14節)

 

可愛いクリスチャンの妻と出会い、洗礼を受け、

今、僕は、新たな人生を歩みだした。

初めて、自分のと言える人生を、神様に委ねて、歩き出した。

、、少なくとも、そうしたいと願っている。

 

そんな過去との決別と新たな決意表明が、Chill e Actaである。

 

「Chill(冷静)e(と)Acta(行動=情熱)の間」、の意味もある。

いや、大体なんでもその間に入るでしょ、という指摘ももっともであるが、

なるべくその振り幅は大きく。その時々の気持ちを大切にする、という意味を込めて。

本当の意味で、「人間的である」とはどういうことなのか。

きっとそれを突き詰めていけば、やっぱり神様に帰ってくるのではないかと思う。

 

まだ書き足りないが、いい時間になってきたので、明日にしよう。

おやすみなさい。