初心忘るべからず

明日に続く、と言ったのに、また2日空いてしまった。

まあ、続けることも大事だが無理をしないことも大事だろう。

特にこれまでは「毎日続けるべき」「いい子でいるべき」の

「べき」で生きてきたわけで、少しそこから離れるのも悪いことではないと思う。

 

さて、前回の復習から。

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。

 ただ捕えようとして、追及しているのです。(中略)

 私は、すでに捕えたなどと考えてはいません。

 ただ、この一事に励んでいます。

 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、(中略)

 目標に目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ人への手紙3章12-14節)

 

僕は、聖書のこの部分が好きだと書いたが、

それは、もちろん純粋にこの部分が好きだということもあるが、

僕の好きな牧師先生が約30年に渡る主任牧師生活の最後の1年に繰り返し話していた、

という点もとても大きい。

 

今年で御年76歳になるその先生は、不思議だ。

初めて礼拝でそのメッセージを聞いた時、

内容のキリスト教的なところは正直わからなかった。 

より正確に言えば、内容的にはまだまだ反発していた。

だけれど、不思議なもので、どうしてかもっと聞いていたくなるのだ。

その後もしばらくは、内容には反発しつつもずっと聞いていた。

 

そんな教会生活が1年過ぎた頃、先生が主任牧師を辞めることを聞いた。

洗礼を授けてくれるのは、主任牧師であり、

僕も反発しながらもいずれは洗礼を受けるんだろうなあと思っていて、

受けるならその先生からと勝手に決めていたのだった。

その先生が主任牧師を辞めてしまう。たいへんだ。

 

そこで慌てて洗礼準備クラスを受け、

ほとんど初めて先生とちゃんと話をし、そして洗礼を受けた。

(この流れもなかなか面白いがまたいつか。)

 

そう、話は先生についてであった。

メッセージは、今になって、文章におこされているものを読み返すと、

確かに内容があり、ひとつひとつに感動するのだが、

メッセージとして礼拝中に聞いていると、申し訳ない、ほとんど内容は入ってこない。

なのに、不思議と安心するというか、

こういう言い方をすると怒られそうだが、神様が先生を通して表れている、というか、

言葉の中身ではないところで、すごい力があるのだ。

もし先生が全然知らない言語で話していたとしても、きっと洗礼を受けていただろう。

それくらい、「人」としての魅力がある先生なのだ。

 

うーん、まったくうまく説明できていないが、

妻も、僕が誰かを尊敬したり好きになったりするのは珍しいというが、

その先生に関しては、本当に尊敬していて、好きである。

(もちろん、可愛い妻も、子どもたちも好きだし、愛している。)

僕自身も、本当に珍しいことだと思う。

うまく言えないが、理屈ではないものなのかもしれない。

 

うーん、まったく説明できていない。

もうホント会ってもらうしかないと思う。

実は先生がキリストでした、とか言われても、そうだねって思ってしまうくらい、

何かすごく大切なものを体現している人だと思う。

うん、、ホント会ってもらうしかない。

 

さて、話を戻すと、その先生が最後の1年のテーマにこの聖句を選んだ。

新米クリスチャンからすれば、もう「捕えて」いてほしいほどの先生である。

なのに、その先生が「この一事に励んで」いるという。

 

これはすごいなと思う。素直に思う。

いつまでも初心を忘れない、それどころか、いつまでも初心のままでいる、

これがいかにすごいことか。

 

新しい主任牧師の先生も素晴らしく、

他の牧師先生たちが、神様にめぐみばかりを話すのに対し、

日々聖書をちゃんと読んで、きちんと神様と向き合わなければいけない、と

力強くいつも語っていて、

メッセージを聞くたびに反省させられている僕であるが、

この老先生は、そんな「説教くさい」ことは言わないけれど、

「私はずっとそれに励んでいます」とサラリと言ってみせ、

その背中を見せるという、、、かっこよすぎるではないか。

 

もう76歳になり、30年も主任牧師を務め、

もう聖書はすべてわかってます、でメッセージをしてもいいのに、

「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
 ただ捕えようとして、追及しているのです。

 私は、すでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。」

って、かっこよすぎる。

 

これは聖書に限らず、何でもそうだ。

こんなことをサラッと言える大人がどれだけいるか。

 

新型コロナウイルスで、学校が止まり、仕事が止まり、日常が止まっている。

今はすべての用事が「不要不急」かそうでないか、で分けられる。

一度ゼロから見直すいい機会と考えてみるのはどうだろうか。

僕たちが日々の中で慣れてしまっているものと向き合ういい機会だ。

 

老先生の背中はそのことを教えてくれている。

老先生などと呼んでしまったが、きっと先生は一番若い。

とにかくかっこいいのだ。