すべて時にかなって

今日は、例の「食の支援」初日であった。

結論から言うと、「何事もなく」終わったのは良かったが、

つくづくブラックジョークだなと感じた1日だった。

 

ホント、こんなことばかりしていたら、

志を持った若者など公務員の世界からいなくなってしまうよ、、

 

さて、そんなこんなの「食の支援」であるが、

朝から、その問題点をわかりやすく説明したいと思っていたら、

なんと今日の大雨と暴風である。

 

で、何がすごいって、

この「外出も危険なレベル」の天候の中、

小学生を含めた(というか主に小学生対象だから小学生が多い)子どもたちに

食べ物を取りに来させたのだ!

 

、、おいおい正気かよ、、

 

4月中旬にして九州に積雪するっていう天気の中、ですよ。

近くに暴風警報や強風注意報が出ている天気の中、ですよ。

、、おいおい正気かよ、、

 

僕が最初に「何事もなく」と言った意味がわかるでしょう。

 

散々反対した。

先週この「休校期間中の食の支援」の話が最初に出た時、

その受渡の方法は、子どもたちに取りに来させるというものだった。

それを聞いてすぐに「いやいや、さすがにそれは危ないですよ」と反対した。

自明すぎるが、あえて理由を挙げるなら、

①そもそも支援対象を「親が(仕事で)家にいない、子どもだけで留守番している小中学生」としていて、そんな子が取りに来るということは、まず家の戸締りをきちんとして、普段登校班で来ている道をひとりで来るしかない。普通にアブナイ。

②来る時と帰る時、無事だったか確認するすべがない。もし取りに来ない子がいたとして、忘れていたのか、来たくなかったとかなら良いが、事故や誘拐にあう可能性もゼロではなく、でもそれを確かめるすべはない。何か問題があって発覚するのは、保護者の帰宅後となってしまい、それでは手遅れになる可能性もある。普通にアブナイ。

③市の施策として、家庭訪問と状況調査を兼ねた方が、実効性と効果が高い。普通にタカイ。

他にもあるが、その場はみんな「そりゃそうだねぇ」となり、

家庭訪問し配布することになった、はずだった。

 

だが、少し時は経ち、次は、

僕が担当している学習支援の教室を運営している事業者に配達させる話になった。

、、いやいや。

「学習支援事業者は、それぞれ曜日が決められていて、普段の教室は夕方か夜に実施しています。それとは別の曜日の、しかも午前中に、しかも本来の業務でない配達はさせられないのではないでしょうか。

「それに、NPOも多く、事業で運行できる車両を持っているかも怪しく、そもそも事業と言えるかもわからない中、保険が適用されるか確認もしないうちに頼むことは、さすがにやりすぎではないでしょうか。

「ここは市の事業として、市職員が行くべきではないでしょうか。」

と言ってみた。学習支援の担当者として。

すると、上司の返事はまさかのこうだ、

「あのね、そんなになんでも心配してたら、何もできないのよ。」

、、、、いやいやいやいやいやいや、、、おいおい、、

鉄砲玉じゃないんですよ、使い捨ての駒じゃないんですよ、事業者は。

協働事業として、一緒に仕事する対等な仲間でしょう。

というか、むしろ、市としてやるべき市民へのサービスを代わりに最前線でやってくれているわけで、感謝こそしても、これはあんまりでしょう。

そんな僕の声は届かず、そして、事業者に配達させることに決まり、

僕は事業者に泣く泣く頭を下げてお願いした。

 

しかし、その日の夕方、

「やっぱり配達させるのはなしだって。子どもたちに取りに来てもらうわ。」

、、え?

市のナンバー2の判断で、すべては振り出しに戻ったらしい。

、、え?どういうこと?

「いや、あの、それは危ないってなったじゃないですか、、」

「そう決まったの。」

そして、僕は終業直前、今度は頭を下げてお願いを取り下げる連絡をしたのだった。

 

だから、僕は事業者に配布する食べ物の中身を伝えた。

(事業者から学習会利用者へ食べ物の希望を聞いてもらっていたからだ。)

「1日当たりたったパン2個と紙パックの飲み物1つ」だって伝えた。

場合によっては、菓子パン2個になる日もある、って伝えた。

どうだ、せめてもの抵抗だ。

いろんなリスクを冒してまで取りに来てそれではあんまりではないか。

だから、僕は「無理はしないで」と暗に伝えることにした。

 

そして、今日を迎えた。

まさかのこの荒天である。

朝にも「さすがに危険ではないか。今からでも配布でいいんじゃないか」と

聞いたが、もちろんスルーされた。

 

無事に終わって何よりであったが、

ホント危ない橋を渡ったのだ。

 

コロナウイルスから命を守るための休校措置に伴う、

本来は命を救うためのはずの食の支援で、

子どもたちに命を懸けさせて取りに来させる。

 

なんのブラックジョークなんだ。

 

僕はこんな仕事をするために公務員になったわけじゃない。

 

対象の線引きだってバッドジョークでしかないではないか。

「親が家にいない子」って、今新型コロナで仕事に行けなくて収入が減ったり、

それこそ離職してしまう人だっているのだ。

「親が家にいる子」の方が経済的に厳しいことだって十分にある。

なのに、上司が言うには、

「親が家にいるならごはんくらい作れるはずでしょ。作るべきじゃない?」

、、もう何も言えんよ、、

それができないから、できなくなるから、貧困と呼ぶんじゃないのかい?

僕らが支援すべきなのはそんな貧困なんじゃないのかい?

親子揃って餓死してりゃやっと理解してもらえるのかい?

でもそんなことを言えば、

「そんな極端な例を言われても、、屁理屈よ」

、、食の支援が必要な人は貧困の中でも「極端な例」だよ、、

食の支援を喜ぶ人は多い。誰だってそうだ。でも「必要な人」は少ない。

でもそれこそ本当に支援すべき人だ。

でも、そんな必要な人には市のHPでちょっと出しただけのお知らせでは不十分だ。

 

ここに「アウトリーチする福祉」の難しさがある。

「必要な人に必要な支援を届ける」

こんな当たり前のことがとても難しいのだ。限りなく不可能なのだ。

でも、そこに挑んでいく。そこに僕らの仕事は意味があるんじゃないのか。

「行政がやる以上線引きは必要よ」

それも確かにひとつの真実だが、また次元の違う議論である。

混ぜるべきではない。

 

僕はこんな似非福祉の現場で働いている。

 

さて、今日のタイトルであるが、

伝道者の書3章11節にある、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

ここから来ている。

 

今日の悪天候のおかげで、この「食の支援」の問題点が説明しやすくなった。

悪天候だが、結局誰も傷つくことなく今日という日を乗り越えられた。

素晴らしいではないか。

 

今日引用するにあたって、伝道者の書を改めて読んでみたが、

とても良かった。

ぜひまたの機会に他の箇所も紹介したい。

 

今日は最後にもう1箇所だけ。

「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受け付けない年とった愚かな王にまさる」

(4章13節)

 

これを頼みに、明日もまた頑張ろう。

 

ちなみに、コリント人への第一の手紙3章18節にはこうある、

「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい」

 

僕は、自分に知恵があるとは思わない。

思わない故にいつも考えたいと思っている。

自分に何ができるか、人のために何がベストか。