考える葦と考えぬ足
人はどうしてか人を2つに分けたがるけど、
今日は僕もそれに倣って分けてみた。
考える葦と考えぬ足。
いかがだろうか。
僕の可愛い妻なら、苦笑して、
「うまいこと言ったつもり?」と言うだろう。
そう、妻は可愛いのだ。
かつて「人は考える葦である」と言ったのは、かのパスカルである。
大きな自然の中では小さな人間だが、考えることによって、
その宇宙を超える可能性を秘めている。そんな言葉である。
しかし、実際はどうだろうか。
パスカルは17世紀のフランスでこう語ったが、現代ではどうだろうか。
いつの間にか、考えているのは一部の人だけになってしまって、
僕らの多くは主体的には考えていないのではないだろうか。
仕事でのPDCAサイクルにひとり疑問を持っていたが、
どうも周りを見回すと、どうもそんな人は他にいないらしかった。
PDCAサイクルの問題は、
もしP=Plan=計画の土台から間違っていた場合に修正できない点にあるが、
そもそも計画を立てるのは、トップだけで、
下々の僕らはD=Do=行動のみしか残されていないのだ。
そう、「考えぬ足」でいることが求められている。
そして、いつしかPlanする自由がないことを忘れ、
与えられたタスクをどう上手にこなすかについてだけ考えることが許されていることにも気が付けず、
「自分は主体的に考えている」と錯覚してしまっている。
でも、それでは足として動けている間はいいが、いざそれができなくなると葦の弱さを発揮し、挫折してしまう。
僕は、昨日の最後に「知恵のある若者」の話をしたが、
それは「賢い」ということは意味しないと思う。
「考える力・自由がある」という意味なんだと思う。
そこで対比されていた「愚かな老人」とは、
考えぬ足を長年続けた結果、「考える力と自由」を失った人を指すのではないか。
でも、悲しいかな、現代は考えると生きづらくなるばかりなのだ。
知恵があるように振る舞いながら、でも実は考えないで流れに乗っているだけで、
そして本当は考えているせいで世間と折り合いのつけられていない人を蔑んで、
一生懸命他人を下げることで自らの地位が上がったかのように見せる、
そんな生き方ばかりがあふれている。
でも、パスカルが言ったように、
僕たちは考えることで宇宙をも超える無限の可能性があるはずだ。
それは誰かを傷つけるためでも、差別するためでもなく、
みんなを幸せにするための方法をも考えうる力であるはずだ。
僕は人を信じたい。
優しくいようではないか。