石を投げる
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
律法学者たちが姦淫の罪を犯したとされる女をイエスの前に連れてきて、
「モーセはこういう女には石を投げろと言っているが?」と
聖書の中でも割と有名な部類の言葉ではないかと思う。
そして、そう言われた律法学者たちは誰もいなくなった、という話。
ちなみに、発達障害でアスペ傾向の強い長女にこの話をし、
「そう言われたら誰も投げられないよねぇ」とありきたりの結論で締めようとしたら、
まさかの「え?」と返ってきた。どうやら彼女は迷わず投げれたらしい。
長女を語る時の代表的なエピソードのひとつだが、
しかし、今の世の中を見渡せば、むしろ彼女は全然特別ではなく、
みんな平気で石を投げれるんじゃないか、と思えてくる。
ネットに日々溢れる、誰かを傷つけるための言葉。
ニュースアプリで何かひとつ記事を読めば、大体そんなコメントがあり、
そんなコメントに「いいね」がたくさんついている。
最初に石を投げた人たちを称賛しているのだ。
僕たちは、悲しさや悔しさの石をいつも握りしめていて、
いつもそれを投げる先を探しているのかもしれない。
もしかしたら、いや、きっと、それは、
いつ自分に投げられるかもしれない、という不安の裏返しなのかもしれない。
投げられる前に投げているだけかもしれない。
投げたくて投げている人は少ないんじゃないかと僕は思っている。
またもや志村けんネタで恐縮だが、
彼はあのヘンなおじさんが素の彼自身だと話していたそうである。
あんな人気者の彼でさえ、素顔を隠してこそ素顔が出せた、ということだろう。
ネットの匿名性は、素の感情を出しやすい。
正確には、怒りとして、感情を出しやすい。
そしていつしかネットと現実が逆転し、ネットでのコミュニケーションが現実にも反映され、現実にも石が投げ交わされるようになっている。
この解決方法は、自らの弱さを、不安を、認めてあげるしかない。
誰かを下げることで自分が上がったように見せるなんてことをしなくていいんだと。
弱くたって、そのままのあなたでいいんだと。
そこに気づかされて、1年前の僕は洗礼を受けた。
それまで張りつめて闘っていた鎧を下ろしたことで、
少なからず人生の指針を失い、少なからず鬱傾向にあり、
世の中の悲しみに少なからず心が張り裂ける想いを抱いているが、
それでも、よかったと思っている。
Love is patient, love is kind.
「愛は寛容であり、親切です。」(コリント第一の手紙13:4)
こちらも有名な言葉だろう。
Let's be patient, let's love.
これは僕からの切なる願いである。