「怒り」の正しさ

妻はよく、僕がいつも怒っている、と言う。

 

これまでずっと、そんなことない、と否定してきたが、

ここ最近になってようやく、そうかも、と思うようになってきた。

 

さらに妻曰く、怒りとは二次感情である、と言う。

その元となる感情があって、怒りとして表れるんだ、と。

 

、、なるほど。

 

では、僕のその核となる感情はなんなのか、考えてみた。

(苦手だ、自分の感情と向き合うのは。)

そして、最近のそれは、悲しみであることに気づいた。たぶん。

昨日も書いたそれである。

 

悲しさが深く、そのやりきれなさが、まだまだ未熟な人間である僕には、

怒りという形でしか表せられないんだろう。

少なからずイタイ現実だが、きっとそうだ。

 

昨日挙げた、やまゆり園の事件やその他の事件、

どう受け止めたらいい?

新型コロナウイルスで子どもも亡くなった。

どう受け止めたらいい?

僕にはわからない。

 

ん、、いや、待てよ、、

たぶんそうじゃない。

今の僕が悲しみの感情に深く沈んでいるのは確かだが、

それと怒りはたぶん別だ。

 

そして、思いついたのは、「正しさ」だ。

僕は上に書いたように、自分の感情と向き合うのが得意じゃない。

より正確に言うなら、好きじゃない。

 

もっと正確に言うなら、僕は僕自身の感情に価値があると思っていない。

そう、僕の感情は人様にお見せするようなものではないのだ。

僕は、僕が誰かにとって価値ある「行動」をして初めて意味がある人間だと思っている。

自分の「行為」にしか自分に価値が見いだせないのだ。

 

僕が悲しい、僕が嬉しい、僕が苦しい、僕が楽しい、、

そんなことを出してどうなるというのか?

少なくとも僕自身はそう思っている。

 

だから、僕の怒りの原動力は「正しさ」なのだ。

「客観的に正しい」ことに「怒る」ことならできる。だってそれは「正しい」から。

、、改めて言葉にしてみると、なんともすごい矛盾をはらんだトートロジーだが、

残念ながら、僕にとってはそれが真実であり、頼みとするところなのだ。

 

そう考えると、僕が公務員をしている「本当の」理由もわかる、、ような気がする。

法律に正しさを求め、それに守られたいのだ。

自身の為す善も悪も外に根拠を置きたいのだ。

 

社会でもスポーツでもゲームでも、

その中にいれば、そのルールの中にいれば、自分が自分である必要はなく、

その枠の中にいられる。

 

、、ブログ3日目にして、なかなか自分と向き合えそうである。

そして、僕はなかなかに闇を抱えていて、なかなかに病んでいるようだ。