悲しいかな

他人を傷つけたい、と思って生きている人は、きっと少ない。

いない、と言ってもたぶん過言ではない。

 

僕も誰かを傷つけたいと思っていることはないし、

身近にそんな人も思い当たらない。

 

言ったら、

死刑が確定した、やまゆり園事件の彼だって、

秋葉原事件の彼だって、もしかしたら京都アニメの彼だって、

そんなことを思っていたわけではないんだろう。

ビンラディンだって、プーチンだって、トランプだって、安倍さんだって。

 

でも、僕たちは他人を傷つけてしまう。

大なり小なり。

悲しいかな、そうなのだ。

 

昨日の茶のCMだってそうだ。

誤解を恐れず言えば、僕はそれを見て、志村けんの死そのものより悲しくなった。

 

そんなこと、そこらじゅうに溢れている。

 

今日晩御飯で豚肉を食べたが、その豚の命を奪ったことだってそうだ。

ほうれん草も食べた。ベジタリアンはそれをよしとするようだが、そんな線引きこそ自分勝手に感じてしまう。

食べた豚肉やほうれん草もそうだが、食べなかった(買わなかった)牛肉や小松菜はどうなのだろうか。誰かに食べられるためにその命を奪われたのに、僕はそれらを救えなかった。鶏肉は?ブロッコリーは?

食べても食べなくても傷つけてしまう。

食べ物を「食べ物」と見ること自体がいけないことなのかもしれない。

 

今日職場の階段ですれ違った見知らぬ同僚の挨拶に応えることができなかった。

発達障害のある娘をまた叱ってしまった。

その下の娘に優しくできなかった。

一番下の2歳の息子を面白く脅かしたつもりが、どうも面白くなかったようだ。

結果、子どもたちを寝かしに行った妻とも一緒に寝れず、今こうして書き物をしている。

 

僕は、そのどれも望んでいなかったのだ。

でも。でも。

 

僕はちょうど1年前に洗礼を受けたばかりの新米クリスチャンであるが、

こういうのをきっと「罪」と呼ぶのだろう、と思う。

罪、とは、どうやら原語では「的外れ、見当外れ」を指すらしい。

さもありなん、と思う。

 

どうしたらいいんだろう。

 

今はただ、悲しい。